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【一言】 大日本帝国海軍の「反戦派」海軍大将井上成美の伝記です。 太平洋戦争前後の海軍上層部の内情を、大本営発表とは違う観点から述べています。 人によって興味の対象が違うので、あえてお薦めしませんが、私としては井上本人の人物像よりも、海軍の実態を理解する上でとても参考になりました。 【感想文】 「井上 成美(せいび;本名しげよし)」を読み終わりました。 (阿川弘之著 1994年8月出版;新潮社 四六判 全1冊 388ページ) 本書は「新潮」に昭和58年5月号から昭和61年3月号まで連載され、昭和61年9月に新潮社より刊行されたものの新装版とのこと。 昨年の百冊目の本を返却に行って、正月休み用に借りて来た本です。 今や年中休みで、今更正月「休み」もないですが、朝から酒を飲めるのは正月だけで、やはり特別でした。 阿川 弘之は、1920年生まれで現在91歳。「主要作品は戦記文学記録文学」らしいです。終戦時は24歳でした。 活字が大きくて年寄り向きですが、ちょっと立派すぎる大げさな装丁です(ちなみに定価3,000円;高い!)。 いわゆる保存版というやつなのでしょう。こういうのは好きになれませんね。 そもそも本というものは、中味で勝負すべきで、外形即ち装丁の立派さとか題名の奇抜さによるのは邪道だと 思います。本を商品として売ろうとするからこういう手法がとられるのでしょうね。 新刊本、特に大々的に宣伝されるベストセラー(たくさん売れた本で、読まれた本ではない)を極力読まないように しているのにはこの偏見も一役買っています。 友人の中に、「本は10年ぐらいたって生き残っているものしか読まない」と公言している人がいますが、同感です。私自身は、多分に趣味的ですが、文庫本が一番だと思いますね。 さて、感想です。 文章は現代文ですが、記述の場面転換が頻繁で(特に過去と現在が入り混じる)叙述がやや非系統的です。 また、情報防衛情報蒐集、とか米内山本井上、とか「、」を入れない用語法なのでこの点では読みにくいです。 有名な「カネオクレタノム」という電文の話と同様誤解を生じやすいと思います。 こういう「国語的な」問題はさておき、内容はなかなか面白いです。 この本は、小説というより、伝記物ですが、本人の活動歴や考え方を詳しく述べており、まわりの人物の面白い エピソードが多く、興味のある人には楽しめます。 伝記ですから、当然本人の人柄は謹厳実直で曲がったことが大嫌いだとか、家庭的には恵まれていなかったとか 長々と書いてありますが、私はそんなことに興味がありません。 この本の意義は、井上の行動を通して、太平洋戦争当時の状況や当時の海軍上層部の動きをかなり内部的に 描いていることにあると思います。また、読み応えもあります。 したがって、ここではむしろ、そのことや本人の考え方などについて感想を述べたいと思います。 (陸軍についても多分こういう本があるのかも知れませんが、どなたかいい本があったらご紹介下さい。) 著者によると、井上成美という人物は海軍の中でも、強硬な対米戦反対派だったようで、その考え方は極めて 合理的だったようです。また、地位・名誉・金銭に淡泊で、清潔な人柄らしい。ちょっと軍人らしからぬ面が多かった ようです。 以下、本文に沿って引用しながら記述します。 なお、感想文が長すぎるという批判を何人かの人からいただいています。 感想文ですので、自分の感想を書き留めて置く目的もあり、報告書のように簡潔に意図を伝える文章とは違い、 場合によってはだらだらと長い感想文になるのはやむをえません。 最近は但し書きを書かなくなりましたが、「時間と興味のある人は読んで下さい。」という考えは変わりませんので、無理して全文を読んでいただかなくても結構です。気楽に参考になるところだけを見ていただければいいのです。 1.海軍の実情と世間の印象の違い 「復員してきて私が強い違和感を覚えたのは、新聞雑誌の論調と自分の海軍体験とがひどくちがうことであった。海軍は、私の経験に則するかぎり、今を時めく学者評論家が言い立てているほど狂信の支配する非合理な社会 ではなかった。世間で禁制の英語を口にするのは全くの自由だったし、陛下のことを私どもは平気で『天ちゃん』と 呼んでいた。『海軍にはもう少しマシな人間もおるんだが、嶋ハンがまるきり東條の副官だからどうにもなるもんか』と、暗にいくさの前途に望みのないことを示してくれた上官の中佐もあった。 今にも革命が起こりそうな現在の偏った世相や言論の方がよほど狂信的に見えて、私は海軍がなつかしかった。」 →復員したのは1946年ですから、その後数年はまさしく彼の印象通りだったのでしょう。一般の水兵と違い、 東京帝国大学繰り上げ卒業の中尉ですので、多少割り引く必要はあるものの、やはり組織の内部にいた人間の話には聞くべきものがあると思います。 2.1936年の2.26事件の時の陸軍と天皇の対応 著者は、2.26事件発生の当初から海軍は反乱軍と見て一戦交えるべく準備している一方、陸軍は最初同情的だったと述べています。 「結果として陸海相撃の事態を見ずに収まるまでの4日間、米内と井上は終始強い姿勢を崩さなかったが、事件 に処して彼ら提督たち以上の明確な判断を示し、迷いも譲歩もされなかったのは、34歳の若い天皇である。・・・ 本庄武官長は、女婿の山口一太郎大尉が当夜歩兵第一聯隊の週番司令で、部隊の出動を黙認するという間接 幇助をしていて、微妙な立場にあった。青年将校たちの『至情』について説明を試み、『暴徒というお言葉はお控え 下さいますように』と言上し、ことごとく却けられる経過は、後年刊行される本庄日記、その他多くの記録に詳しい。 ・・・ 陛下はさらに、『陸軍当路の者が鎮圧出来ないなら、自分が自ら近衛師団を率いて鎮定にあたる』と言い出される。 ・・・どうやってみても、天皇が自分たちの思うようにならないので、『暴徒』に同情的だった陸軍の処理方針は二転三転し、『蹶起部隊』の呼称も、『騒擾部隊』『行動部隊』と段々後退して、2月29日とうとう『叛軍』、これ以上抵抗 する者は『逆賊』と見なすと決まった。討伐の示威に戦車が動き始め、『兵に告ぐ』の布告が出、叛乱軍将校の 大部分が自決勧告を拒否して憲兵隊に勾留され、事件は終熄した。米内井上の二人は、万一宮城が占領された 場合、海軍の兵力で陛下を救出し、洋上の比叡へお移しするという計画を立てていたが、その必要も無くなった。」 →この事件の経過を見ると、当時の天皇に断固たる判断力・決断力があったことがよく解ります。話は飛びますが、それだからこそ、私は戦前の天皇には戦争責任があったと思うわけです。当時の天皇はお飾りでも操り人形でも なく立派な軍指導者であったと思います。 3.三国同盟に対する海軍の反応 「彼ら情報部員は、国力のラフな計算を、鉄を基礎に置いてやっていた。日本の鉄鋼生産量は、甘く見積もって アメリカの20分の1、統計の取り方では50分の1にもなる。而も日本経済は、その大部分が米英圏に依存して 成り立っている。特に、海軍にとって最重要物質の石油と鉄鋼原料を、アメリカから購入していた。 もし、ドイツと軍事的に手を結べば、当然の帰結としてイギリスを敵に廻し、ひいて同根のアメリカを敵に廻すことになる。これは、日本が石油と鉄を絶たれることを意味する。鉄と石油を絶たれて近代装備の軍隊を維持できるわけが無く、しからばドイツとイタリアが米英圏に代わって日本経済を支え得るかというに、全く論外の沙汰でしかない。したがって、アメリカとの対決は何としてでも避けなくてはならぬし、その為にも、独伊と同盟のようなものは絶対結ぶべきでない――。 誰が考えても当然の単純な論理なのだが、そこへ心情としてのアングロサクソン嫌い、陸軍伝統のドイツ贔屓や イタリアかぶれ、皇国不敗の神がかり的信念といった要素が入ってくると、話が全く変わってしまうのであった。」 →今日では、米国には物量で負けた、という議論が常識になっています。まさしくそうですが、冷たい言い方を すれば、国力比較をして負けるとわかっていたのを300万人からの死者を出してまで実証したということでしょう。 ここから得られる教訓は、過去の戦争責任をあれこれ言うだけではなくて、今日に生かさなければならない、というっことだと思います。私は、そのためには、まずは政治やマスコミの動きを批判的に見ることだと思っています。 4.語学の重要性 山本五十六がポケットマネーを払い込んで開戦後もスェーデン経由で取り寄せているアメリカの雑誌を部下に配った時の話です。 「英語の1941年12月22日附の『ライフ』がその中にあった。表紙は大きく星条旗で飾られていて、これが日米 戦争勃発後の最初の号であった。間に合わなかったらしく、真珠湾空襲の記録写真は未だ載っていなかった。・・・ 『The Great Pacific War』と題する太平洋戦争予想記が取り上げられていた。英国のジャーナリスト、ヘクター・バイウォーターが1925年に著した書物で、此の種のものとしては古典に属するのだが、『予測は適中した』と、特に この古い本を取り上げて、内容のあらましが紹介してあった。 16年前の未来戦記だから、飛行機はたいした活躍をしないし、戦争の発端も、真珠湾ではなく、日本軍による パナマ運河閉塞作戦に設定してあるけれど、幾つかの点で、山本五十六の言ったこと、井上成美の指摘したことと、奇妙なくらいの一致を見せていた。 初めの一ヶ月、日本は破竹の進撃ぶりを示し、フィリッピン占領、グアム占領、潜水艦が真珠湾や西岸サン・ディエゴ軍港を攻撃して港外に機雷を敷設する。水上機によるサンフランシスコ、ロサンゼルス空襲も行われる。 一番似ているのは其のあと、反撃に転じた合衆国艦隊が日本の平賀聯合艦隊を撃滅するまで2年という予想と、 アメリカ側反撃の中心は中部太平洋から西太平洋へかけての島嶼基地争奪戦になるという予想であった。・・・ 発想が少々古くさいとはいえ、日本海軍の作戦に特攻思想の芽生えを予想しているかのような、陸奥『ハラキリ』 突撃もあるし、長門も無論登場する。 板垣大尉や上村中尉の乗艦長門が、ヤップ島沖海戦で大被害を蒙ることになっているのに、彼ら若手のほとんどは、大して関心を払わなかった。何よりもまず、英語が苦手であった。『折角の長官の御配慮に相済まんですがネ、わしら、こういう横文字の雑誌はどうも手が出んです』と渡辺参謀に言ったのが伝わり、『何処の国と戦争している と思っておるのか。英語は苦手、英語の書物は読みませんで、アメリカ、イギリス相手のいくさが出来るか。思い上がったことを言う勿れ』と山本は機嫌が悪かったそうである。」 →日本の軍隊が情報戦に弱い一つの理由に「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」的発想が非常に強いことがあります。 敵が米英だと、英語も嫌いになって勉強もしなくなる、といった現象は、陸軍で極端でしたが、海軍にもあったことが わかります。これはしかし、過去の話として看過してはならないと思います。 現在、自衛隊の仮想敵国は、ロシア、中国、朝鮮であることは公然の秘密です。もちろん、戦争をしてはならないとは思いますが、軍隊としては国民の負託を受けているわけですから、イザという時に常に備えていなければならない、という観点に立たねばなりません。その「戦力」の重要な一つはこれらの国の言葉です。これをどれだけ勉強しているでしょうか。外部からはよくわかりませんが、多分それほどやっていないと思います。 平和な今のうちに、相手と交流し、衝突を防ぐ予防策としても語学教育を徹底することが必要だと思いますね。 5.教育論 井上はいくさには弱かったが、戦略論、教育論については非常に優れていたとの評価があります。 著者が昭和43年正月に80歳近い井上を訪ねて聞いた話の中に以下のようなものがありました。 「江田島の兵学校校長になったとき、軍事科目よりも一般教養を重視したと言われますが、その趣旨は「自分が目ざしたのは兵隊作りではない。生徒をまずジェントルマンに育て上げようとしたのだということであった。 ジェントルマンの教養と自恃の精神を身につけた人間なら、戦場へ出て戦士としても必ず立派な働きをする。 だから基礎教養に不可欠な普通学の時間を削減してはいかん。減らすなら軍事学の方を減らせ。英語の廃止なぞ絶対認めない。 江田島伝統の教育目標は、20年30年の将来、大木に成長すべき人材のポテンシャルを持たしむるに在って、 目先の実務に使う丁稚を養成するのではない。・・・・」 「『質問が一つあります』と、私は井上の話を遮った。『それら一連の思い切った措置は、あらかじめ敗戦後の日本 というものをお考えになった上でとられたのでしょうか』 いや、当時そこまで考えていた訳ではないという返事を予想した私に『むろんそうです』井上はきつい口調で答えた。 『あと2年もすれば、日本がこの戦争に負けるのは決まり切っている。だけど、公にそんなことを言うわけには行きません。そんな顔をすることすら出来ない。名分の立たぬ勝ち目のないいくさだと内心思っていても、勅が下れば 軍人は戦うのです。新しく兵学校を巣立って行く候補生にだって、私の立場ではしっかりやって来いとしか言えない。軍籍にある者のつらいところですよ。 それならしかし、負けたあとはどうするのか。とにかく此の少年たちの将来を考えてやらなくちゃならん。皆で目茶 目茶にしてしまった日本の国を復興させるのは彼らなんだ。その際必要な最小限の基礎教養だけは与えてやるのが、せめてもの我々の責務だ、そう思ったから、下の突き上げも上層部からの非難も無視してああいうことをやりました』 井上校長の教育方針は、理想論に過ぎて、戦時中の実情に副わないところがあったのではないかと、かねて私は 多少の疑問をいだいていたが、これで腑に落ちた。敗戦後の日本再建に早くから針が合わせてあったとすれば、 行き過ぎ無理押しと見えることも、全部納得が行くのであった。」 →井上は、軍人よりもむしろ学者と見られた位教養があり、教育熱心だったようです。こんな人がどうして大将になったかについての経緯は本文を読んでいただきたいですが、ともかく教育の本質をよく理解していました。 今話題の橋下某という大阪市長が教育改革を叫んでいるようです。私は詳しい内容を知りませんが、単に頑張って教えているから立派な教師とは言えないし、まして、勤務時間や行政の長や校長など上司への態度で評価して、 できが悪いからクビにするといった方針は乱暴過ぎると思いますね。 教育はその成果が出るのはそれこそ20年後です。そいう長期の期間には何が起きるかわかりませんので、 「自分の頭で考える」人材の養成が、遅いようでも最もよいやり方で、そういう基準で教師を評価しないと禍根を残すことになるでしょう。 6.軍備予算の効率化 「年が明けて昭和16年の初め、軍令部が長い間練っていた極秘の『マル五計画』が完成し、部内に提示された。 大和、武蔵、信濃、大鳳の建造を決めたのがマル三計画、マル四計画で、マル五計画はそれに続く第五次の海軍 軍備充実案にあたり、戦艦三艘を含む艦艇159隻65万噸、航空兵力160隊の増強を新たに要求していた。・・・ 膨大な予算化要求だが、大臣も次官も軍務局長の岡少将も、海軍省側が唯々諾々これをそのまま呑んでしまい そうなのを見て、井上は発言を求めた。 『計画を拝見し、且つ只今の御説明を聞くに、失礼ながらこれでは余りに旧式で、明治の頭を以て昭和の軍備を行わんとするものである。アメリカが戦艦A隻持つから日本は10分の8A隻必要、空母B隻を持つから10分の8B隻 要ると、彼の軍備に追随するだけの、まことに月並みな計画案で、その間もしアメリカと戦争になったら、如何に戦いどうやって勝利を収めるのか、それには何がどれだけ入り用かの、明確な説明は何もなされていない。日本のような国は、もう少し創意豊かな自主性ある軍備を保有すべきであって、かかる杜撰な計画案に膨大な国家予算を 費やせるほど金持ちではないし、仮にこの通りの海軍軍備が出来上がったとしても、こんなもので実際の対米戦争に到底勝てはしない。軍令部当局は一度この要求を引っこめて、同じ金を使うならもっと気の利いた使い方が 出来るように、篤と研究のやり直しをされるがよかろうと思う』 列席者の予期しない『爆弾発言』だったが、これに対しても格別の反論は出なかった。ただし会議は流会となり、 高木武雄少将が、航空本部(井上が本部長)にあすこまで出しゃばった容喙をされてたまるかという勢いで、井上 の部屋へ乗り込んで来た。 『どうすればいいんですか、本部長』 『どうすればいいか、分からないのか』 『分かりません、教えて下さい』 『それなら教えてやろう。海軍の空軍化だよ』」 →この後すぐ戦争が始まり、航空機の有効性が確認されたにもかかわらず、相変わらずの大艦巨砲主義がまかり通ったことはよく知られた話ですが、井上は、大和建造計画の当時から、これだけの巨費をかけるなら飛行機製造にまわすべきだと主張していました。費用対効果を冷静に検討した卓見だったのですが、当時の海軍は過去の 流れに沿った対応しかできなかったようです。 ことは、過去の話で終わらせてはならないと思います。分野は違いますが、毎年原発に巨額の予算をかけて、失敗が明らかになったにもかかわらず、来年度予算案でも4千億円以上の税金を原発につぎ込もうとしています。 これだけの金があれば、新エネルギーの開発促進を大幅に加速できるはずです。私は原発推進は現代の大艦 巨砲主義だと思います。早く現代型というか未来型というか新政策に切り替えるべきだと思いますね。 7.新軍備計画論 「井上がまとめた意見書は、『<航空機、潜水艦ノ異常ノ発達>により、将来の戦争では、日本海海戦のような主力艦隊対主力艦隊の決戦は絶対しない。日米戦争の場合、太平洋上に散在する島々の、航空基地争奪が主作戦となる。故に、巨額の金を食う戦艦なぞ中止し、従来の大艦巨砲思想を捨てて、海軍は<新形態ノ軍備ニ邁進スル要>がある。米国と量的に競争する愚を犯す勿れ』というのがその骨子で、表題は『新軍備計画論』となっていた。 海軍軍備の『新形態』を創り出すため、最優先課題として井上が挙げたのは、 一に基地航空兵力を中心とする航空の飛躍的整備充実と基地の要塞化、 二が洋上交通路の確保護衛の重視、 最後が潜水艦部隊増強の三つであった。 ただし、『新軍備計画論』の中で彼が一番言いたかったのは、総論の第二項、『帝国ガ米国ト交戦スル場合、ソノ 戦争ノ形態ヲ考察スルニ』で始まる例の『日米戦争ノ形態』であったと思われる。 『米国ニ対し、有ラユル弱点を有スル』日本は、『此ノ弱点ヲ守ルノ方策』を十二分に講じないかぎり、不本意の持久戦へ持ち込まれ、一時太平洋上に王者の地位を保持し得たとしても、やがて陸海両作戦軍全滅、米軍の東京占領、日本全土占領のかたちでいくさを終る可能性が強いというのが、『日米戦争ノ形態』の基本的主張であった。」 →すばらしい参謀能力ですね。ストーリーも実際ほぼその通りになりました。しかし、仮に井上の戦略を採用したと しても、結果は同じだったろうと思います。ただ、膨大な犠牲者を出した南方戦線(半分は飢え死にと言われる)や原爆投下などは避けられたかもしれません。 8.委員会制度の弊害 昭和45年の5月、東北大学法学部教授の池田清が長井(井上の居所)を訪問しました。彼は兵学校73期の元 海軍中尉で、井上の教え子にあたります。 「話が井上が「新軍備計画論」を起草した昭和16年の初頭の海軍内部事情に及んで、海軍の対米開戦決意に 大きな影響を与えたと言われる第一委員会の活動に関し、池田の質問が出た。 『あんなもの百害あって一利無しと、今でもそう思っているけれど、実際は第一委員会がいけないというより委員会 という制度そのものがよくないんだね』と井上は答えた。『ある面から見れば、委員会とは要するに責任を回避する 為の組織ですよ。今の内閣が、何か難しい問題にぶつかるとすぐ調査会とか審議会とか作るのを新聞で読んで、 ああ、同じことやってるなと思います。あれを作ると、責任の所在は分散して、誰がほんとうの責任を取るのか、 はっきりしなくなる。殊に第一委員会のような秀才揃いの委員会では、自分の主管事項に関する限り各委員とも 非常に突っ込んだ勉強をして臨んで来るから、上が何も勉強していない無能な大臣総長だと、委員会の出す決議 に圧迫を感じるんですね。それでつい盲判ということになってしまう。その結果、此処まで来たら対米一戦止むを得ないんじゃないかというような、とんでも無い結論が、誰が言い出したのか責任者不明の、極めて曖昧なかたちで 大勢を支配し始めるのです』・・・ 『昭和14年の、三国同盟をどうするかという時は、そのための委員会なぞ置かなかった。鼻息の荒い若い課長 連中には知らん顔で、こう決めたとも言わず、大臣の米内さんと山本次官、それに私、この三人の責任において、 三人だけで徹頭徹尾反対し抜きました。あの頃の海軍で大臣以上にしっかりしていたのは次官、それに輪を かけてはっきりしていたのが軍務局長と評してくれる人がありますが、事実そうでした。私の立場で自分の責任と いうものを考えれば、しっかりせざるを得なかった。これは、陸軍流の中堅幹部の下克上と全然ちがいます』」 →40年前、70年前の話ですが、無能な政治家と無責任な官僚で国政が運営されている日本の決定機構はそれこそ全然変わっていませんね。昨年の東北大震災・原発事故直後に菅総理が20以上の会議をつくって右往左往して、実態が何も進まなかったことが思い起こされます。 今は、TPPとか消費税とか社会保証とかたくさんの委員会が出来ており、もっと増えるでしょう。 官僚の無責任体制はこうして守られるのです。 9.海軍の仕事のやり方 「井上は『月月火水木金金』という戦時中の流行語を挙げ、あんなのが伝統の海軍精神と思われているとしたら 大間違いだと答えた。『あれはジャーナリズムの発案ですよ。本来そんな殺風景な海軍じゃないんです。休む時には休む、やる時はしっかりやる。半舷上陸の伝統はこれなんだ。・・・陸軍の部隊みたいに、遊んでるんだか働いて るんだか分からないだらだらの勤務はしませんでした。それを、戦前の軍事普及のやり方もいけなかったんです。 国民大衆に喜ばれるような、ジャーナリストがすぐ飛びつきそうな『月月火水木金金』なんて変な言葉を発明して、 煽りたてたんじゃないのかね。私は大嫌いですよ。朝から晩まで、しっかりやれと尻を叩いて、土曜日も日曜日も 無しに年中張り切らせておく、そんな馬鹿なこと出来るものではありません。そりゃあ、聯合艦隊が編成されて猛 訓練で忙しい時期には、徹夜することもあるし日曜を無視することもある。しかしそれが済めばさッと重荷を下ろしてね、休暇貰って家族のところへ帰って、20日なり一ヶ月なりゆっくり休んでから、補充交代で又次の仕事に出て行く。海軍本来の生活にはリズムがあったんです。』」 →私の現役時代の会社の仕事、特に基ソ開時代はここでいう陸軍的な仕事の仕方でした。 個人的にはメリハリを付けるよう努力はしましたが、組織全体の雰囲気を変えるのは到底無理でしたね。 今は改善されているでしょうか。 以上です。 |
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